仏教講座「夢中問答」10月2日(日)午後2時から3時半
すっかり秋の気配ですね。今こうしていても鈴虫の音が聞こえています。
皆さん、夏の疲れは取れましたか?
これからのシーズンをさらに充実させるためにも、ぜひ夢窓国師の教えを一緒に拝聴いたしませんか?
さて、前回を振り返ってみますので、しばしおつきあいください。
「鎌倉幕府を倒すという大義の下に力を合わせて戦ってきたが、新政府内で政治や思想が真っ向から異なるとなるといったいどうすべきか。
折り合えばすべき政治ができず民が苦しむ。戦えば兄弟どちらかが死ぬことも起こる・・・。」
いつの時代にも、私たちの生活の中にも、譲れないこと、譲ってはいけないであろうこと、などがありますね。
こうした「対立」の時、いったいどうすればよいのでしょうか。そのようなギリギリのところにいた直義に国師は禅を説いていきます。
前回6段では「心を尽くしても願いが叶うことは稀なのはなぜか?」という問いに、
「人間の願いとは、よく見れば快を求め不快を遠ざけようとしているにすぎず、事実は自分の欲を満たそうとしているのである。
真実の目を通して見れば、その願いを叶えることがかえって本当の幸せから遠くなることもある。
神も仏のあるものか、と思っても、実はそのつまづきによってかえって本当の福に到る道を気づかせていただくということがあるものだ。」
ということを、西行法師の江口での故事、中国での官吏になった青年の厳しかった父への回想、 ビワの種をなくしてほしいと願う老婆の話などを引いて説明されました。
「本当の福は、この世での自我が基準の幸不幸ではなく、自分の全人格、つまり泡ではなく水そのもの、真理に根差したところからの自己の答えに、快不快を度外視して生き切ることにある。」
と国師はおっしゃっていました。
まさに命を惜しんで自己の真実から逃げずに生きること、たとえそれがどんな結末だろうと、そうしか本当の生き方はない、ということを国師と直義のふたりは確認し合っているような段でした。
7段では、業についての問答でした。
仏教では、この世は因果の世界なので、今で言う遺伝子も含め、定業は決して消えないが、
「本人が自覚をし至誠心で修行したなら必ず転ずることができる。が、欲情で福を保ちたいために仏神に祈るならば、定業に勝つことはできない。」
と述べられます。
6段と同じことで、至誠心とは泡ではなく真理からの全人格ということです。
それを伊勢神宮の素朴で自然な様子や、八万大菩薩の真っ直ぐ、というあり方を引いて、「手を加えず自然な美しく質素な様子にこそ現れているではないか。」とおっしゃるのです。
20段では、執着心について述べられました。
「うまくいかなかった時はもちろん、うまくいったならいったで、人間の心はわずかでも心の引っ掛かりができる。それを執着という。このことによって事態が暗転することがある。
唯一の方法は、執着心が起こってもこれが魔道かと自覚して、心を強くして捉われないようにして、満足の心を持たず、少しもわからなくてもヤケを起こさず、いよいよ修行の功を積む。
そのようなただ更に励むという心のみの時、執着心から離れる。」
と語られ、
「もしそうできれば、この世の幸不幸、快不快から自由になれるだろう。まるで維摩居士が一切の悪魔及び諸々の悪者共も皆自分の侍者だと説いておられるように。」とおっしゃいました。
さて、今回は中巻に入ります。
ここからはさらに禅の深いところに入っていきます。
ぜひ京都天龍寺の夢窓国師の方丈に、直義公と共に入ってみませんか?
*参加できる方には後程テキストを送ります。ZOOM希望の方にはURLとテキストを送ります。
録画希望の方にもテキストを送ります。
<場所>日暮里駅徒歩3分 人間禅擇木道場
<時間>午後2時から3時半
<受講料>3000円 テキスト含む
<お問合せ>zen@gyokukei.jp